昭和四十五年一月二十八日 夜の御理解
竹葉会でしたが、いつものことですけれども、本当に若い嫁さん達の集まりです。本当にもう、一人一人が色々体験を発表しておられましたが、信心を頂いておるということが有り難いなあと、本当にいっつも信心を中心にしながら様々な一番家庭の中では、まあ言うなら難儀をかかえておる嫁さん達が、あんなふうにして生きて行く最高の道を選んでいきよるということを思うて有り難いと思ったんですが。
中で久留米の井上さんが話しておられましたが。ゆみ子さんというのが長女で今、高校〔に〕行きよります。それに、最近はなんて言うんですか、ゆみ子〔さん〕の信心の心境が非常に開けてきたということ。そんなら、合楽の生き方というものを、まあマスタ-しておると思われるような生き方。もう全てが、学校ででも家庭でも本当に親の私が目を見張って見るように、この頃信心の成長をしておるというお話をしておりましたがね。
昨日も、あちらのおばあちゃんが涙を流して喜ばれるんだそうです。というのは、「今日はあんた、ゆみ子がおばあちゃんに話があるとこう言うて、また、私は、あれが文句言うじゃろうち思うちから覚悟してあの人の話を聞いたところが、あんた有り難いじゃないの、あの人がこんなこと言うた。」と言うて、おばあちゃんが喜んだと言われる訳です。
というのは「おばあちゃん、現在、井上の上にこういう有り難い幸せな信心のおかげで生活させて頂いておるということは、おばあちゃんが一番初めに金光様に御神縁を頂いておって頂いたおかげと言うて、その、申しました。」と言われてます。それを聞いておばあちゃんが、涙を流して喜ばれたということを聞かして頂いてから、本当に、なる程そうどころじゃないとゆうことですよね。
おばあちゃんが金光様の御信心に縁を頂いておったということが、現在のおかげを頂くのですけれども、金光様の御信心を頂いておってもね、その後を受け継ぐ者が本当に信心に打ち込んで、本当に幸せを感じなければ、それは言えないと思うんですよ。
それは、ゆみ子さん自身が、最近こういう信心の生き方というものが、こんなにも有り難いもんだということを感ずれば感ずる程、元をたどれば、おばあちゃんにあるというところからです、おばあちゃんに対する感謝の念が出て来るようなものであってね。
問題はだから、私達が本当におかげを受けなきゃならないということ。そして、本当に信心頂いておるおかげでという日々が、過ごせれるおかげ〔を〕頂かなきゃならんということ。そこに、初めて辿り辿ってですたい、例えば、本当におばあちゃんが御信心を頂いておって下さったおかげで、ということにまでなってくるんですからね。
どんなに信心を頂いておる家庭であっても、それを受け継ぐ者の信心が、ただ御利益、例えば目当ての信心といったような信心であったら、さほどにおばあちゃんを感動させる、感激させるといったようなおかげにもなってこないだろうと、こう思います。
問題は、いよいよ私達が、本当におかげを頂いてですね、日々の生き方が信心になっておる。その調子を体得した、その元をとって下さったのが、おばあちゃんだというようなところまでひとつおかげを頂かなあいけんと思いますね。
どうぞ。